2013年04月21日

存在意義

昨日ご紹介した『夏目家の糠みそ』、拾い読みして気になったことの一つが、「たまに古書店で見かける父の本はどれもすこぶる高い」と語られている部分。

なんでも「まだ母が存命中のこと」、『憂鬱な愛人』を読み直したいので「国会図書館でコピーをしたい。ついては承諾書をもらえないか」と電話をもらったとのこと。

これでも古本屋ですから、そういう話は気になります。いまどき、そんなことがあるだろうか、と。

というのは、大概の本は簡単に手に入る昨今のご時世。特別な作家の初版本などといった類でなければ、それほど高価ということもあるまいと思ったからです。

こう申すのもなんですが、松岡譲という作家、店主あたりの感覚では、それほど古書価が高いとは思われません。半信半疑、「日本の古本屋」で調べてみました。すると確かに、当の『憂鬱な愛人』は端本が二件、他の作品もなかなか見つかりません。

『法城を護る人々』(第一書房:1923-)についても書かれているとおり、復刻の法蔵館版(1981-)も絶版となって揃いでは見つからず、Amazonでは、おそらくわけも分からないままに、上巻だけでとんでもない値段が付いていました。

RIMG0183もっとも著作自体が少ないといえば少ないのですから、それも当然といえなくもありません。しかし一方で漱石関連の著書は、いくらでも見つかります。

けれどもこんなことは、要するに店主が門外漢のトウシロウだということを、白状しているだけのことでしょう。

『憂鬱…』は著者自ら「新たに泥仕合を始めさせかねない挑発的な広告を打たれたら、十年間沈黙していた意味がないと、静かな出版を望んだ」本だとか。そういう本は、まだ他にもたくさんあるはずで、そうした本の蒐集にこそ存在意義を見出している古本屋さんも大勢います。

でも、そうした本もデジタル化されていくのでしょうね。

konoinfo at 18:40│Comments(0)TrackBack(0)

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