2015年06月22日
ゼッカ問題
若い男の子が店に入ってくるなり、「最近入った本が並んでいるのはどのあたりですか?」と尋ねました。
「うちではそういうコーナーは設けてないんですよ」と答えますと、「じゃあゼッカはありますか?」。咄嗟にはその単語が文字にならず、返事に間が出来ると、すかさず近くにいた家人が「ありません」。
この本について、最近まで店主は、情報に疎いままでした。世間では、とりわけ出版界や新刊書店では、大きな問題になっているということを知ったのは、ほんの数日前のことです。
ですから当然、その現物を目にしたこともなく、そこにどんなことが書かれているのかも知りません。しかし、その騒がれようから、懺悔の書でもなく、事件と無関係な身辺雑記でもないことは確かでしょう。
この件で店主がこれまでに目にした唯一の文書は、朝日新聞のコラムだけですが、その執筆者は問題の書のタイトルに造語が用いられていることに、不純なものを感じているようでした。
さて、またしても問われているのは「表現の自由」です。しかし「表現」とはいったい何を指すのでしょう。あらゆる行為は、表現足りえます。「暴力的表現」という言葉がありますが、「暴力という表現」すらあり得ます。それらもまた「自由」でしょうか。
暴力は人を傷つけるではないか、というような単純な理屈ではありません。今回は、その出版によって、明らかに傷つけられた人がいるのですから。
ここには何かトートロジーが隠れているように思います。自由であるべきものが「表現」であり、そうでないものは「表現」ではない、というような。
では今度の本が、果たして自由を保証されるべき「表現」なのかどうか。それを判断するためにこそ読みたい、と考える方もおられるでしょう。それでは出版社の思う壺だと、お怒りになる方もおられるでしょう。
しかし少なくとも店主にとっては、ぜひ読みたい本ではありません。判定は、世の識者にお任せいたします。
「うちではそういうコーナーは設けてないんですよ」と答えますと、「じゃあゼッカはありますか?」。咄嗟にはその単語が文字にならず、返事に間が出来ると、すかさず近くにいた家人が「ありません」。
この本について、最近まで店主は、情報に疎いままでした。世間では、とりわけ出版界や新刊書店では、大きな問題になっているということを知ったのは、ほんの数日前のことです。
ですから当然、その現物を目にしたこともなく、そこにどんなことが書かれているのかも知りません。しかし、その騒がれようから、懺悔の書でもなく、事件と無関係な身辺雑記でもないことは確かでしょう。
この件で店主がこれまでに目にした唯一の文書は、朝日新聞のコラムだけですが、その執筆者は問題の書のタイトルに造語が用いられていることに、不純なものを感じているようでした。
さて、またしても問われているのは「表現の自由」です。しかし「表現」とはいったい何を指すのでしょう。あらゆる行為は、表現足りえます。「暴力的表現」という言葉がありますが、「暴力という表現」すらあり得ます。それらもまた「自由」でしょうか。
暴力は人を傷つけるではないか、というような単純な理屈ではありません。今回は、その出版によって、明らかに傷つけられた人がいるのですから。
ここには何かトートロジーが隠れているように思います。自由であるべきものが「表現」であり、そうでないものは「表現」ではない、というような。
では今度の本が、果たして自由を保証されるべき「表現」なのかどうか。それを判断するためにこそ読みたい、と考える方もおられるでしょう。それでは出版社の思う壺だと、お怒りになる方もおられるでしょう。
しかし少なくとも店主にとっては、ぜひ読みたい本ではありません。判定は、世の識者にお任せいたします。
konoinfo at 19:52│Comments(0)│TrackBack(0)│
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